白を見る度、別れを思い出す。
昨日、49日を迎えて納骨してきた。
3月8日の15:56に亡くなった母の。
その1週間前に59歳になったばかりだった。
3月5日に入院してから、ずっと高熱が下がらない母の手は亡くなったその日の午前に既に冷たかった。
看護師さんは「血圧測定で脈が取れない」と云っていた。
前回のブログに書いた通り、母は眠ったままだ。
熱が高いまま下がらず40℃を回っていた。
解熱剤を使うと身体に負担が掛かるので、氷枕と濡れタオルで額や身体を拭いてあげる事しか出来ない状態だった。
母に巣食う癌は母の胸に止まらず、身体の至るところに広がっていた。
胸の所は膿んで出血していた為、定期的に洗って消毒してガーゼをかえなければならなかった。
その時もガーゼを新しいものにかえて、再度戻って来た看護師さんが一瞬ピタリと動きを止め、母の名を呼んだ。
母の様子を見て胸が上下していないのが、私にも見えた。
看護師さんから知らせを受けたお医者さんが看護師さんが持ってきた心電図の付け、ピーと無機質な音がしてすぐに外した。
そして「ご臨終です」と告げた。
母の傍を離れられずに仕事を休みがちだった父が用足しで離れた一瞬の事だった。
私の傍でおばあちゃんが泣いていた。
初めて見る涙だった。
母が息を引き取った時、病室に姉も居たらしいが私の記憶にはない。
壁からドンっと音が聞こえたような気がしたと話したら、後になって兄が壁を殴った音なのだと聞かされた。
母の遺体はお医者さんに書類を書いてもらった後に家の車に乗せて家に連れて帰った。
とても暗く、どしゃ降りの雨の中の帰宅だった。
その日の内に葬儀場の人が来て大体の日程が決まった。
9日に納棺、10日に火葬、11日に通夜、12日に葬式となった。
母の顔は眠ったままの状態で時が止まっていた。
苦しい顔をしてなくて、それだけは良かったと思った。
翌日は送り人の人が来て、母に化粧をしてくれた。
服装を見ながら私は「お遍路さん」みたいだと思って見ていた。
母の顔は血色が良くて本当は寝た振りして皆を驚かせようとしてるんじゃないかと思ったりもしたけど、組まされた手や覗く足が白くて、今、この状況は夢じゃないんだと、父兄姉おばあちゃんのすすり泣きは、やっぱり現実だった。
その翌日は、おばあちゃんと一緒に、足が痛いからと危篤状態の母に1度も見舞いに来なかった、母と対面できるように家に連れて行ったのにそれでも会おうとせずに、母の死を「寿命だから仕方ない」と云い捨て「遅かったな、腹へった」とおばあちゃんの悲しみに寄り添いもしないジジイも一緒に来た。
母の名を呼ぶ姿がすごく白々しかった。(何でそれを生きてる時にしなかった、連れて行った時に這ってでも歩いて来なかったと恨みしかない)
母の棺が蓋をされて、中に納まり点火のスイッチが押された時、私の内側から込み上げてきた。
これが嗚咽なのだと知った。
誰かに傷つけられたり、いじめを受けたその時でさえ、こんな泣き方をした事はなかったと思い出した。
骨を拾うのも初めての経験だった。
人が産まれてくるのに約10ヶ月はかかっても、死んで骨になるのは一瞬なんだ、「あっけないんだなぁ」と思った。
遺影に使われた写真は昨年、バラ園に家族で出かけた時の笑顔だった。
だけど、通夜と葬式の時は遺影は見なかった。
母の名前が呼ばれた時わざとよそ事を考えて聴かないようにしていた。
母が骨になったら家の中がほんの少し広くなった。
病気で臥せっていても、母の存在感は大きかったのだと、その時実感した。
母はもう居ない。
その現実と共に1ヶ月とちょっとを過ごしてきて昨日を迎えた。
うちのお墓は、盛り土をしてその上に大きな平たい石が乗せられている、とてもシンプルなものだ。
来てくれた知人が穴を掘ってくれ、箱の中から持ち上げた白い袋から骨の輪郭が透けて見えて改めて「母は死んだ」と自分に云い聞かせた。
本当はもっと早くに一人前になって家を出て、きちんと自分の力で生活できるようになって、両親を母を「親」という役目から解放したかった。
親を卒業して第2の人生を満喫してほしかった。
母は亡くなった。
だけど、身体がなくなっただけで精神体か魂が向かう世界がもしかしたらあるんじゃないか。
私は、今の母が食べたいものを好きなだけ食べられて、行きたい所に出かけたりして第2の人生を今エンジョイ出来てたら良いと思っている。